映画が公開されるのでペットセマタリーを読んだ。
2020年1月17日らへんに、日本でペットセマタリー(リメイク)が公開されると知ったので年末年始実家に帰省した際に原作を無断でかっぱらってきた。
スティーブン・キングだ。モダンホラーの帝王と呼ばれているキングだ。
ペットセマタリーはスタンドバイミーやグリーンマイルと違ってごりごりのホラーだと聞いたため、映像でいきなりショックを受けないように原作で予習しておくことにした。
映画のためなら苦手なホラーも克服する。
久しぶりにキング作品を読んで思い出した。
この人、本題に入るまでがかなーーり長いんだった。いや、物語が始まったその瞬間から本題なんだけど、肝心のホラーまでの道のりが遠い。なんとなく不穏な空気がじんわ~り漂っていたりたまーに怖い描写がどーんと出たり。
でも実際はまだ特に何も起こっていない、的な。
シャイニングもそうだった。上巻はなんとなく不穏で何かが起こりそうな、でもまだ起こっていないような、微妙な空気をねちねちねちねち書いてくる。で、下巻に行く直前にバカみたいに怖いことになる。
ペットセマタリーもそう。超常現象っぽいことは起きるんだけど、本題である真に恐ろしいことはなかなか起きない。下巻に入ってもなかなか起きない。ただずっと心が苦しい。
今回は最終的に映画を観ることが据えられているので、どのあたりが映像化されるのかなと考えながら読んだ。
とりあえず、上巻はほぼほぼカットだろう。猫の話をやるくらいでしょうな。というか猫の話はマストだけど、他は別に……って感じ。
じゃあ上巻は読まなくていいかと言われるとそんなこともない。
大体キングの作品というのは、日常が徐々に非日常に侵されていく様を見るのが面白いんだ。最初はなんてことない普通のことしか起きないのに、それが少しずつおかしくなって、最終的に理屈では理解できないようなことばかりが襲いかかる。それがいいんだ。
だからねちねちねちねち日常を描くことは必要なことだ。
読んでみると本当にねちねちねちねち書いてある。固有名詞が非常に多い。
住んでいる街の名前は当然だが、子供が見ている番組名とか、おやじたちが飲んでるビールの名前とか、一回しか出てこない学生の名前とか、書置きがなんというノートに書いてあるかとか……。
それが無駄だと思う人もいるだろう。
でもそれがいい。日常とはそういうものだ。ねちねちしているものだ。コンビニに行ったらどの酒を買うかラベルを見るし、テレビをつけたら番組名を気にする、書置きがあったら「レシートの裏に書いてあらぁ」と思ったりする。そういうものだ。
それを文字起こしするとああいう文章になるんだと思う。それは読んでいて退屈になるときもある。しょうがない。日常とは時として退屈なものだから。
上巻はそういった日常を描きつつ、少しずつ超常現象に巻き込まれていくさまが描かれていく。それでもやっぱり平和な日常を。
そして下巻に入ってからは超絶怒涛のホラー展開が……!
というわけでもない。
ペットセマタリーは、ホラーであってホラーではなかった。
もっと大事なのは、愛するものを突然奪われた父親の狂おしいほどの悲嘆であった。愛するがゆえに狂気に走る一人の男の姿をただひたすらに描いている物語だった。
そこにあるものの正体。それは特には問題ではない。そこにある魅力に取りつかれ、愛するものを失いたくないという至極まっとうな気持ちが生んだ物語だ。
死をごく自然なものだと理解できていたはずの男が、その死に逆らってしまう愚かな話。しかし私たちだって、彼のようにならないとは言い切れないだろう。ペットセマタリーで描かれたあの生と死の物語は、ルイスにのみ起きた話ではないのだろう。
これが映画になったら結局はホラー色が強くなってしまうのだろうか。これは紛れもない家族愛の話なのだから、その辺りはうまくまとめてほしい。
それにしても、相も変わらず気持ちの悪い描写が多かったので、それをスクリーンで直視できるかが問題だ。